
元来楽観天的な性格で、
悲観的な言葉はとても苦手。
「なんとかなるさ~」(沖縄風に読んで下さい)で、
実際は「なんともならなく」て、
しまった!と思うこともしょっちゅうで、日々あくせくしているのだが、
それでも、たいていの問題には
「そんなもんさ」または「それがどうした」の2ワードで解決してしまう。
しかし現実は、ほんのすぐ近くで、
凄惨な殺人事件があり、目を覆いたくなるような災害があり、
人生に降りかかる深い悲しみがあり、罵詈雑言か横行している世界だ。
例え能天気な私でも、そこから目を背けちゃいけない。と思う。
というか、お気楽な性分だからこそ、ちゃんと見なくちゃという気がしていたのだ。
2月からNHK月曜日午後10時25分から放映している、
中野京子さんが解説する「怖い絵」で人間を読む。
は、そういう闇に目を背けがちな自分に違う視点をくれた番組だ。
世の中はハッピーな笑顔に溢れていて、
幸せな気持ちになる絵画と音楽だけがあればいい。
とどこかで能天気に思ってしまう私だが、
たまたま目に留まった恐ろしい絵に、釘付けになってしまった。
ゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』
ブリューゲルの『死の勝利』
シーレの『死と乙女』
なぜ、このように恐怖に満ち、陰惨な絵画がなぜ生まれたのか。
このような震撼とさせるような絵を描かねばならなかったのか。
知りたくて、食い入るように画面に見入った。
しかし、番組を通して、
そこに至る、画家の様々な経緯。
人間の宿命や、失望や、悲しみ、生きる力、愛。
人間である事の罪深さなどについて、思いをめぐらせるていると、
いつしか、
実は、喜びも悲しみも、幸せも、不幸も、
悪も善もこの世にはなく、ただ、あるしかないのじゃないか。
光も闇も平たく存在するものなのじゃないか。
凄惨な事件の本当に底にある心の痛みをきゅっと握り締められることが、
本当の意味の心の平穏を得る方法なのだろうか。
楽しいところや、美しいところだけ見ているだけでは、
本当の楽しさや美しさではないのではないかなあ。
孤独な音楽や、凄惨な絵画、そして現実の凄惨な事件や、日々の悲しみを、
ほんとうに本当に、深い底で感じ、きゅっと捕まえられるようでありたいとおもうのだ。
強い光を感じるために、強い闇を感じているように。
もうひとつ、
いつも考えてしまうことは、
僧侶だった祖父が、病気を前に、病院や看護師に対し、
心安らかな気持ちでいれなかったことだ。
それまでは大好きな優しい祖父だったので、
看病していた私にとって、祖父の変化は本当に衝撃的だった。
今でも大好きな祖父には変わりなく、
ただその事で得た事は、人間の心の予想のつかない深さだ。
きっと、病気や死を目前にしたら、
私もいまのように安穏とした気持ちではいれないのかもしれない。
本当の闇は、想像の外にあるのかもしれない。
光も闇も、きっともっと広い地平にあるのだろう。と覚悟している。
でも、だからこそ、今知っているよりも深い闇を知りたいと思うのだ、
より深い光を知るためにも。
ちなみに、
写真は今週の玄関脇ギャラリー。
ラヴェンナに行った時に購入した、ラヴェンナのオラトリウムの内部のモザイクです。
(祈祷所という意味で音楽のオラトリオはここから来ています)
美しかったけど、人気のないオラトリウムは祠みたいで、なんだか怖かった。
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